今回の記事は「The Truth of Seabass ザ・トゥルース・オブ・シーバス」コーナーの記事です。
■釣りの記事は嘘ばかり???
さて、ここの所このホームページでは「ポイント開拓」や「ノウハウ」系の記事が続いていたが、皆さんの釣行に少しは参考になっただろうか。当然、良い結果に結びついた方も居ただろうし、結びつかなかった方も居ただろう。
私自身、昔は何種類もの釣り雑誌の記事を購読し、隅から隅まで精読し、時にはノートに要点を書き写しながら、何度も読み返したりしたものだが、残念ながら記事の通り釣れたなどと言う経験は、全くないとは言わないが、ほとんど記憶にない。
・・・なんてことを、釣りライターである私自身が書いてしまっては、元も子もないのだが、個人的経験とはいえ、事実なので仕方がない。この様な結果になってしまった理由としては、下記の2つが考えられる。
1.記事に嘘や間違いがあった。 2.記事の使い方が間違っていた。
さて、どちらだろう・・・とワイドショーの様な詮索をしたくなる気持ちも分からないでは無いが、個人的な見解としては多くの場合「2」が大きな原因ではないかと考えている。
なんて事を、釣りライター側の人間である私が書くと、業界の肩を持っているのではないかと思われるかもしれないが、そんなつもりは毛頭ない。
では、どういう事だろう???そんなに釣りライターが書く記事は正しいのだろうか?(笑)
いや、笑ってはいけないか。。。ただ、記事の内容が正しいか正しくないかの判断は、なかなか難しい。ライター自身も、自分の記事の内容が正しいかどうかを問われると即答出来ないケースが多いと思う。
誠実なライターほど、書いている本人としては自分の記事の内容が正しいのかどうかは自信が無いと思うし、逆に、自信満々で言い切り型の文章を書いている記事は、読み手としては要注意だ。
どうしてかと言うと、釣りには「絶対」などというノウハウなど存在しないからだ。とはいう私も、記事の中で「・・・は、まず間違いないと私自身は確信している」みたいな文章を書いている事が多々あるが、これはあくまで「私自身が確信している」と思っているだけであって、それが絶対的な真実だとは言っていない。
それに、私がそのような自信満々の記事を書いているのは、あくまで釣りのごく一部についての話であり、1匹の魚を手にするまでには、それ以外の多くの問題をクリアする必要がある。私の記事だけで魚がバンバン釣れるようになるような記事は書いていないと思う(多分)。
なんでそんな事になってしまうのかというと、釣果の大部分は「偶然」によるものだからだ。あっ「・・・だからだ」と言い切ってしまった💦正しい書き方をすると「釣果の大部分は、偶然によるものだと、私個人は確信している」だろうか。
ただ、これについては、釣りの経験が長い方ほど、同意して頂ける方も多いのではなかろうか。何年釣りをやっても、どんなに魚を沢山釣ってきても、良くて「この条件なら ” 多分 ” 釣れるだろう」という予想がつく程度だ。どんなに自信がある場合でも「多分」という言葉は除くことが出来ない。
■「偶然」との戦い
上記の「釣果の大部分は、偶然による」という点については、過去雑誌の記事でも書いたことがあるが、このホームページでは、更に深い記事を掲載している。
とりあえず、それっぽい内容の記事をあもいつくままに挙げてみると、例えば下記のような記事だ。まだ、未読の方は是非読んで頂ければと思う。ここまで「偶然との戦い」について考察している釣りの記事は、地球上でこのサイトだけだろう。
《※この画像はあくまでイメージです》
但し、内容はかなり難しいと思う。出来る限り幅広い皆さんにもご理解頂けるよう努力して書いているつもりではあるが、それでも普通の釣りの記事みたいな読みやすさは、全くない。釣りの真実は、そう簡単には解明出来ない事が多いのである。まぁ、偏執的な記事です(笑)
・・・と、またいつものごとく前書きが長くなってしまったが、いよいよ本題に入ることにしよう。
皆さん、スズキ狙いに限らず、ルアーで魚を狙う場合、いきなり爆釣にでも遭遇しない限り、多くの場合は釣りの最中に何回かルアーをチェンジするだろう。多くの場合、アタリが無ければ別のルアーに交換するみたいな感じで交換しているのではなかろうか。
ここで「アタリが無ければ」と書いたが、では「たまにアタリがあるが、ほとんどの時間はアタリが無い」みたいな場合はどうだろう?これは、かなり悩ましい。この場合「たまにアタリがある」の ” たまに ” が ” どの程度たまに ” なのかが気になるところだ。
ではその ” たまに ” の程度は「どの程度」だったら、ルアーを交換した方が良い結果をもたらす確率が高まるのだろうか???
今回は、その「たまにの程度」について深掘りし、ルアーを交換するかどうかの合理的な判断方法について解説してみようと思う。題して「そのバイトはルアーのおかげか?それとも偶然か?」。
今回も、それなりに長い記事になると思うので、何回かのシリーズ物の記事になるだろう。ということで、今回はシリーズ第1回目「私達の癖」について解説してみようと思う。私達は「偶然」に起こったことが「偶然」ではないと考える「癖」があるのである。
この事を自覚しないで釣りをしていると「偶然の出来事」と「規則性のある出来事」がごっちゃになってしまい、再現性のある(次回の釣りに応用できる)ノウハウの蓄積に繋がらなくなってしまうのだ。
となると「偶然の出来事」と「規則性のある出来事」をどうやったら見分けられるのかが大問題になってくる。さて、そんな事を見分けるうまい方法などあるのだろうか???
■20回のコイン投げの途中で、5回連続で表が出たら、次は裏が出る確率が高いのか?
突然だが、近年、経済学の世界では「行動経済学」という分野が注目されるようになっている。あぁ、またゴルゴの小難しい話が始まったよ・・・という声が聞こえてきそうだが、仕方がない。これは泣く子も黙る「THE TRUTH OF SEABASS」コーナーの記事だ。普通の釣りの記事など存在しない。
行動経済学とは、超ザックリ言えば「人間の現実の行動に合った経済学の構築」で、人間は現実の世界で、実際にどういう行動をするのか、そしてそれは何故行うのか、その行動の結果何が起こるのかに基づいて経済学を再構築しようとするものだ。
行動経済学は、1979年に世界最高水準の計量経済学誌の一つといわれている「エコノメトリカ」という雑誌に、D.カーネマンとA.トヴェルスキーが「プロスペクト理論・リスク下での決定」という、経済学の世界における碑的論文が掲載されて以来、世界中で話題になり研究が進められてきている。
それまでの経済学は、理論の為の理論という感が否めない内容で、机上の空論の権化みたいな感があった。どこが机上の空論なのかと言うと、人間は「自分の好みが明確」で、「その好みには矛盾は無く、しかも常に不変」で、「その好みに基づいて、自分の満足感が最大になるような完璧な選択肢を必ず選ぶ」という仮定を元に理論を作っていたという事だ。
そんな人間はこの世には存在しない。1978年にノーベル経済学賞を受賞したH・サイモンに言わせると、そんな人間は「全知全能の神の様な存在」である。
サイモンの批判は当たり前の話で、例えば私たちはルアーを買うとき、自分の嗜好やそのルアーの用途・目的を完璧に認識し、地球上の全てのルアーのスペックや価格を頭に入れた上で、最良の商品を選んでいる訳では無い。こんなことをわざわざ書く事すら恥ずかしい。
大阪市立大学名誉教授の塩沢由典氏によると、高速のコンピュータを用いて、従来の経済学理論で最適な選択肢(最適解)を見つける計算をするには、商品数が10個の場合は0.001秒ですむが、商品数が40個になると約13日かかり、50個になると約36年もかかるという。
コンピュータでさえこんな状況である。しかし、私達は釣具屋でルアーを買う際、壁にズラッと並んだルアーを前に、36年もかけてルアーを選んではいない。ショップに並んでいるルアーの数は、自分が関心のあるカテゴリーのルアーだけに絞ったとしても、とても40個などというレベルではない。明らかに人間はそんな思考は行っていないのだ。
そこで、行動経済学では、より現実的な人間を前提として理論を再構築した。「より現実的な人間」とは、どんな人間かと言うと「完全に合理的ではないが、そこそこは上手くできる」という人間だ。一言で言うと「結構適当」だということだ。これを「限定合理性」という。
行動経済学では、この「限定合理性」という前提に立ち、数多くの革命的理論を生み出してきた。「限定合理性」という概念はあくまで経済学や認知心理学の話だが「釣り」にも深く関係すると私は考えている。
本来「釣り」は「魚」「人間」「水を中心とした周囲の環境」の3つが必要なレジャーだと思うが、今までの釣りの理論は「人間」の存在自体を無視し「神の視点での釣り」を究極の目標にしてきたように思う(それも、かなり半端な)。
“ 本当に釣れる理論 ” を作るには、釣りは「パソコン」では無く「人間」がやるものだという、そもそもの前提を思い出して「限定合理性」を加味した理論を考えなければ、机上の空論になってしまう。
私達は常に「流れ」「ベイト」「水温」「地形」・・・等の情報を「限定的」にしか入手できない。入手できたとしても、私達はその情報を完璧に合理的には扱えない。釣りに限らず、私達が常に合理的で冷静な判断をしているなどと考えるのは、100%誤りだと思っていいだろう。
実際は “ 人間らしい半端な合理性 ” で扱おうとする。その様な性向がある事を前提として釣りを考えない限り、いくら「魚」や「水」の事が分かっても、全ては「机上の空論」となり実効性のある釣り理論とはなりえないはずだ。
経済学や認知心理学の世界では、人間の「限定合理性」については、膨大な数の研究がひしめいているが、今回はその中でも「ギャンブラーの誤謬」という話に注目し、釣りについて考えてみたい。
ここで、突然だが皆さん、20回のコイン投げの途中で、5回連続で「表」が出たら、次は「裏」と「表」どっちが出る確率が高いと思うだろうか?
そろそろ「裏」が出るだろうと思うだろうか。それとも、5回も連続で「表」が出たのだから、次も「表」が出そうな気がするだろうか?しかし、それらの予想はどちらも誤り。正解は「分からない」だ。
どういう事だろう?この時つかっているコインが表裏の出現確率が異なる「いかさまコイン」で無い限り、コインの裏表が出る確率は「1/2」だ。この確率は、前回のコイン投げの結果に左右されず、常に変わらない。コイン投げは、1回ごとに独立た出来事であり、前回出た面とは関係なく、常に「1/2」。
何回連続で「表」が出ても、次に「裏」が出る確率は下がらない(「1/2」のまま)。何回連続で「表」が出ても「そろそろ表が出る」とは言えない。常に「表」と「裏」は同じ確率で出るので、正しい回答は「わからない」という事になる。どっちかが出そうだ、と思うこと自体が間違いなのだ。
はじめのうちはどんなに「表(裏)」が連続で出ようとも、統計学的には、コイントスの回数が多くなるほど「表と裏が出る割合」は「1/2」に近づいて行く。20回程度のコイントスの回数では何も言えない。ちなみに、全くの偶然でも、10回連続で表(裏)が出る確率はゼロではない。
表が連続して出る回数 | 起こる確率 |
1回 | 50.0% |
2回 | 25.0% |
3回 | 12.5% |
4回 | 6.3% |
5回 | 3.1% |
6回 | 1.6% |
7回 | 0.8% |
8回 | 0.4% |
9回 | 0.2% |
10回 | 0.1% |
■「ギャンブラーの誤謬(ごびゅう)」とは?
ここで注意が必要なのは、先程「コイントスの回数が多くなるほど、表と裏が出る割合は、1/2に近づいて行く」と書いた点だ。つまり、コイントスの回数が少ない時点では「表と裏が出る割合は1/2から大きく外れた値になる確率が高い」という事でもある。
つまり、実際に貴方が、20回程度10円玉を投げて実験してみても、表が出る回数は上の表に書いてある確率とは大きく異なる値になる可能性が高いということだ。上の表に示したような正確な数値を「実験」から導き出すには、もの凄い回数のコイントス実験を行う必要があるのだ。
上の例では、コイントスと言う単純な例だったので「正確な理論値」をあらかじめ計算して、実際の「実験結果の値」と比較する事も可能だったが「正確な理論値」が計算出来ないような、もっと複雑で難しい事柄においては「実験結果の値」しか手に入れることが出来ない。
つまり、確率的な出来事において「実験結果の値」から「正確な値」を予想するためには、膨大な回数の実験を行わないとあてにならないということである。
しかし、人間は、コイントスに限らず、多くの場合、そこまで多くの回数をやる前に自分の短い経験(「表」が5回連続で出たなど)の中で判断をしてしまう傾向がある。
ギャンブルをやる人間などは「ツキが回ってきた」という言い方をしたりして、結果としては地獄の底に落ちてゆく・・・という事になるのである。これが「ギャンブラーの誤謬」だ。
「ギャンブラーの誤謬(ごびゅう)」とは、例えるなら「20回のコイン投げの途中で、5回連続で表が出たら、次は裏が出る確率が高い」と間違った判断をしがちな、人間の ” 思考のクセ ” を意味する。
なんだか、釣りとは関係の無い話が長々と続いていると不満をお持ちの方も居るかと思うが、さにあらず。もう一度、今回の記事の題名を見返してみて欲しい。
釣りをしていて、たまにバイトがあるが釣れない時、ルアー交換をするべきかどうかを判断する際、多くの釣り師の頭には「さっきのバイトはルアーのおかげか?それとも偶然なのか?」という事が気に成っているはずだ。
もっとやっかいなのは「5回キャスト連続でバイトがあったけどヒットしない場合」や「20キャスト連続でバイトすらない場合」みたいな時だ。これらのケースでは、ルアーをチェンジすべきなのだろうか?
ということで、次は「偶然に起こった事なのか、それとも、偶然以外の何かの理由で起こった事なのか」の正確な判断方法について、解説してみようと思う。
請うご期待!!
(つづく)